江戸の河岸がおもしろい 隅田川河岸マップ

隅田川河岸MAP
隅田川、日本橋川周辺は、江戸の経済の中心地だった!
現代の私たちの生活物資は、主にトラック輸送や鉄道輸送によって運ばれています。
江戸時代、百万人を超える江戸の人々の食糧、生活物資は、舟によって運ばれていました。
中世以来、江戸では運河を掘削(くっさく)するなどの大工事が度々行われ、海岸や河川は、徐々に整備されていきました。
江戸の町に縦横無尽に張り巡らされた水路が、市中の物資の輸送をはじめとする経済活動を担っていたのです。

地方から江戸へ、江戸から人々のもとへ

まず、全国からの年貢米や生活物資は、菱垣廻船(ひがきかいせん)や樽廻船(たるかいせん)という大型船で江戸まで輸送されてきます。そのままでは、舟が大きすぎて市中の川や堀には入れないので、いったん江戸湊(東京湾の前身)の隅田川河口付近で、高瀬舟や艀(はしけ)などの中型船に積み替えられたうえで、隅田川や日本橋川などの川をさかのぼっていきました。物資は、それらの川の沿岸に設けられた「河岸(かし)」に運ばれ、荷揚げされました。河岸は、船着場兼物資の集積場だったのです。
このように、日本橋川、隅田川などの水路や河川の水際にあった「河岸」は、輸送された物資の荷揚げ場として利用されていました。
この「河岸」で仕分けされた後、米や生活物資は、流通問屋を経て市中に配分されました。
江戸時代、江戸市中の「河岸」の数は、70以上あったと言われています。
また、日本橋の魚河岸のように、幕府に納めた物資の残りを、河岸の周辺で売り始める者なども出てきて、これが市場の元となりました。このように、河岸は、荷揚げ場としての物流機能を持つつとともに、現代の繁華街や商店街のような商業の中心地としての都心へとつながる原点でもありました。明治以降、物流の中心が舟運から鉄道や道路になった後も、日本橋から神田上野広小路までの地区、金融ビジネス街としての兜町、問屋街としての小伝馬町、堀留など、かつて河岸として栄えた地域が、商業やビジネスの中心地へと変貌していきました。
「隅田川風物図巻」(部分) 東京都江戸東京博物館蔵

河岸の名称

河岸の名称はいくつかのタイプに分けられます。
・特定の産地の物資を専門的に扱うことからつけられた名称
「木更津(きさらず)河岸」「行徳(ぎょうとく)河岸」など
・取り扱う物資や機能を表す名称
「魚河岸」「白魚河岸」「米河岸」「本材木河岸」「茅場河岸」「塩河岸」「薪河岸」「竹河岸」 など
・古くからあった集落の地名にちなんだ名称
「浜町河岸」「小舟河岸」「鎧(よろい)河岸」「柳原河岸」など

代表的な河岸

「魚河岸」
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いにあった河岸で、鮮魚や塩干魚を荷揚げしていました。
徳川家康は、江戸城内の台所をまかなうため摂津(大阪)の佃村から漁師たちを呼び寄せ、江戸湾内での漁業の特権を与えました。漁師たちは獲れた魚を幕府に納め、残りを日本橋で売るようになったのです。それが魚河岸の始まりといわれています。生鮮食品などは、長く保存しておくことができないため、その場で品物を販売する市場へと発展していったわけです。
この魚河岸で開かれた魚市は、一日の取引が千両に上ったということから、その大きさがうかがわれます。日本橋の魚河岸は、関東大震災後に築地に移転されるまで、江戸および東京の台所として活況を呈していました。
このため、日本橋地区には、今も多くの老舗が残っています。「三井越後屋呉服店」(三越)、「大丸」など、現在の百貨店となった老舗、「八木長」(乾物)、「山本海苔店」(海苔)、「山本山」(海苔・お茶)「千疋屋総本店」(高級フルーツ)、「木屋」(刃物)、「にんべん」(鰹節(かつおぶし))、「黒江屋」(漆器)、「国分」(食料品)、「さるや」(楊枝)、「うぶけや」(刃物)、「柳屋」(化粧品)などの専門店も、みな日本橋で創業しています。

「行徳河岸」
現在の日本橋小網町にあった河岸で、ここから、「行徳船(ぎょうとくぶね)」と呼ばれる、江戸と下総国行徳を結ぶ船が発着していました。
当初は、行徳の塩田の塩を江戸へ運ぶための河岸でしたが、やがて野菜や魚を運ぶ道となり、さらに旅人達も利用できる、成田街道の一部としての交通路へと進化していきました。
(小網町には、この他にも末広河岸・鎧河岸などの河岸があり、船積問屋が軒を連ねる江戸の商業の中心地でした。)

「竹河岸」
京橋には「竹河岸」があり、竹を商う竹問屋、竹屋が軒を連ねていました。竹は房総半島や下野国から運ばれてきました。成長の早い竹は、江戸時代、箒(ほうき)、熊手、物干竿、筆、ざる…など、さまざまなものに使用されていたのです。この河岸を描いた『京橋竹河岸』という安藤広重の絵も残っています。

蔵前の札差(ふださし)

河岸とは別に、輸送物資の貯蔵や保管を行う施設として「蔵」がありました。最も有名なのが、江戸浅草に設けられた江戸幕府最大の御米蔵です。この浅草の御米蔵の西側にあった町は、江戸時代中期以降「蔵前」と呼ばれるようになり、多くの米問屋や札差という仲介業者が軒を連ねていました。現在の東京都台東区の「蔵前」という地名は、これに由来します。
江戸時代になると、貨幣経済が発達します。札差は、武士たちが俸禄(ほうろく)として受け取った米を、米問屋に売却し、貨幣に換えて手数料を取るという仕事を代行していました。彼らは、この他、大名や旗本・御家人に金も貸し付けて、莫大な利益を得ていました。札差は、吉原遊郭や江戸三座(江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された三つの芝居小屋)を借り切りにするなど、贅沢を極めていました。


※図は、鈴木理生著「江戸の川・東京の川」(井上書院1989)の江戸湊の河岸をもとに河岸の位置を示したものです。